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写真日記


1962年 当時

1962年、昭和37年当時、外国に個人留学をする際必ず受け入れ国に「保証人」が必要でした。その保証人が生活費を負担、また学生に何らかの問題が生じた場合には帰国にかかる費用を持つこと等を保証した「ギャランティーレター」なるものをもって霞が関の外務省に直接パスポートの申請に行った記憶があります。そして一回に持ち出せる外貨は500ドル。パスポートは毎回帰国するたびに無効になり、再出国の際にはまた新しいパスポートを取得する必要がありました。日本からの海外旅行が自由化されたのはそれから2年後の1964年、そして今日のように5年、10年有効のパスポートを持ち簡単に航空券を購入して海外に行けるようになったのはジャンボジェットが登場した1970年代に入ってからです。

まだ海外への渡航者の数も少なく、羽田を出発する際男性は背広にネクタイ、女性もそれなりの身なり、今のようにジーパンにTシャツ、スニーカーで飛行機に乗れるような雰囲気ではありませんでした。私もスカートにブラウス、ヒールの低いパンプスを履き薄手のコートを羽織り、航空券と共に頂いた航空会社のロゴ入りバッグを手に羽田を出発しました。

当時、写真以外に外国人の生活を目にすることが出来たのはテレビの「パパは何でも知っている」「うちのパパは世界一」と言ったアメリカ版連続ホームドラマかハリウッド映画、ヨーロッパはテレビ番組には登場せずもっぱら映画の中だけ。

そんな中、東京の近くで異国を感じられたのが今の横浜中華街、当時はまだ「南京町」と呼ばれていました。生まれて初めて「纏足」のおばあさんを目にしたのも南京町。まだ東京の町全体が暗かったその頃、夕食後歩いた南京町は輪をかけて薄暗く裏通りに入るとそこはまさに異国、中国風の上着にぶかぶかズボンを履いたおばちゃんたちが裸電球の下、中国語で井戸端会議をしながらニワトリの羽をむしったり盥で野菜を洗ったりしていました。そして渋谷のワシントンハイツや横浜本牧の米軍家族の住まいはフェンスの外からしか眺められませんでしたが緑の芝生と大きなアメリカ車、パステルカラーのワンピースの女性たちはまさにテレビに出てくるアメリカそのもの。また御徒町の「アメ横」や有楽町のビルの一角にあった「アメリカンファーマシー」にはアメリカからの化粧品や西洋人形そして当時まだ珍しかったジーンズや可愛い財布などが並んでおりそこには確実に外国の匂いがしていました。

東京には「焼肉屋」は登場しておらず「ホルモン焼き」の名で街の片隅にありましたがなんとなく入りにくい雰囲気でした。六本木の「キアンティ」が都内で初めての「イタリアンレストラン」としてオープンしたばかり。ハヤシライス、ライスカレー、ビーフシチュウ、魚のムニエルと言った料理を提供する「日本の洋食屋さん」以外の本格的西洋料理屋さんは銀座の「オリンピック」「アラスカ」や一流ホテルのダイニングルーム、その他ハンバーガーやホットドッグを食べさせてくれる「ジャーマンベーカリー」、そして数軒のドイツ家庭料理店、インドネシア料理店も1,2軒はあったかと思いますが、「支那料理屋さん」の数が一番多かったと思います。そもそも「外に食べに行く」と言うのは子どもにとっては特別イベントでした。

パンと言えば白い食パンが主流、それ以外はブドウパンにバターロールあとは菓子パン。クロワッサンだのバゲットの出現までまだ十数年待たなくてはなりません。都内のケーキ屋さんに並んでいたのは「シュークリーム」「エクレア」「モンブラン」「マーブルケーキ」「ショートケーキ」や「アップルパイ」に「レモンパイ」、全国的にはまだバタークリームが主流の時代。ティラミスやらミルフィーユ、パンナコッタが登場するのはそれから20年以上経ってからの1980年代です。

考えてみると1962年は明治が終わってまだ50年しか経っておらず、1962年以前の50年とそれ以降の50年では比較にならないほど大きく世界は変わりました。石油の増産とその製品の普及、通信技術と航空機の進歩がその歩みを速めたものと思います。

臨場感あふれるハイヴィジョン画面で海外の街角からヒマラヤまで、南極からアマゾンの奥地、戦いの最前線や珍しい動植物を自宅に居ながらにして見ることが出来、インターネットで世界中の人々と瞬時に繋がりネットで調べ物が簡単にでき、パスポートがいつも手元にあり航空券を購入すればいつでも行きたい所に行ける今日、世界は益々物理的には近くなって来ており「異国」と言うイメージはなくなり「隣のお国」と言った感じになりました。。

しかし半世紀前のあの当時、一般的に日本人がドイツと聞いて思い浮かべたのは「ビール」「ヒットラー」「ベートーベン」に「メルセデスベンツ」「ベルリンオリンピック」「ツェッペリン」に「メッサーシュミット」位なのではないでしょうか。そしてドイツ人が日本と聞いて思い浮かべたのは「ハラキリ」「フジヤマ」「ゲイシャ」「ソニーのトランジスタラジオ」。「YOKO ONO」も「HARUKI MURAKAMI」もまだ世に出ておらず日本人の名前でドイツ人が知っていたのは唯一「HIROHITO」くらいでした。

そんな時代背景の1962年7月末、父に連れられミュンヘンを出発、ドイツ国内をまずは汽車で回り、その後は飛行機でデンマーク~スウェーデン~イギリス~フランス~スペイン~スイス~オーストリアを1か月旅しました。(つづく)
  
  

今日2011年7月31日チェンマイは朝から雨でした。

  
  

名取 美和|2011/07/31 (日)

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